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スタッフ通信
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VOL.92 2014/08
お料理を再認識する
お料理が美味しいかどうかってのは、私達酒場にとって、本当に大事な問題です。しかし昨今は、そのお料理に対して、あまりにも力を注いでいない店が多すぎると私は感じています。
そもそも旨い料理ってどんなものだかって議論だが、これは随分と過去に書いたのでそれらを読み返してもらいたい。今月は、過去に書ききれなかった事を書こうと思います。私が考える、旨い料理ってのは。つまり料理談義です。
そもそも、酒場で出す料理は酒場らしくないとダメである。酒場らしいとはどんな料理か。それは酒場に似合っているものであるという意味だ。それはどんなものか? 100ページ書いても描き足りないので割愛するが、酒場らしい料理がわからない場合、想像できない場合、酒場に足を運んでないのだろうと思うから、色々な酒場に行くことをお勧めする。さすれば少なくとも、ビールを飲むお客様に、コーンスープを出したりはしないものだ。
また旨い料理ってのは、食べる人の思い出に依存する。人は皆、それぞれ生きていく中でお料理に対する思い出がある。どんなに美味しい料理を出しても過去にいい思い出がないと、食べる人は辛いものだ。逆に、自分の好きなお料理ってのは、過去にいい思い出があり、だからゆえに、そのお料理は更に美味しいのだ。どうせなら、いい思い出のお料理を提供してあげて欲しいものだ。それをするためには、顧客との会話を大切にして、どんな過去を背負ってきたのかを知らねばならない。そしてその過去から思い出の逸品をしっかり聞いて、それを作ってあげるべきなのだが、昨今はそんな酒場はなくなってしまったと感じている。淋しいものだ・・・。
歌は世につれ、世は歌につれと言うが、料理も同様だ。時代の中に、その時々の流行があり、料理は世相と共に発展してきた。それは時代を映す鏡であり、今を表現するファッションと同様の意味を持つのだ。よって人々は、その時々の流行の店に行き、流行のお料理を食する。それらは店舗という箱とマッチして提供されるお料理、つまりその時々の「今」なのだ。
お料理は王道をしっかり守っていないといけない。型があるからこそ型破りと言えるのだ。型も知らない素人が作る料理は決してうまくはない。型がなっていないから、型も破れず、ただ破天荒なだけなのだ。そんな料理はパンチはあっても、回数多く食べたいとは決してならないものである。
さらにお料理とは、すなわち人間が生きてきた中で形成した文化だ。時に貧困の中で、また時に飽食の中で、いかに楽しくあるか、また、いかに空腹を満たすか。そしていかに、人の体にマッチしてるのかを、何千年もかけて、様々なアレンジを繰り返し、人の手によって、地味に地味に進化を遂げ、作られてきたものなのである。だからお料理を極めるという事は、人の進化や物理的な整合性を検証する作業と同じものなのである。
お料理、すなわちそれは、生きる為にあるのではなく、時に笑ったり、涙したり、戦ったり、愛し合ったり、そう、つまりは、人が人として、人らしくある為に、存在するもの、それがお料理ってものである。私はそう考えている。
アナタにとってはいつもの夜かもしれない。でもお客様にとっては、実に大切な夜なのだ。アナタにとってはいつもの客かもしれない。でもお客様からすれば、たった一人のアナタなのだ。アナタにとってはただの小鉢かもしれない。でもお客様にとっては、懐かしい思い出の小鉢・・・。アナタの手で、最高のお料理を作ってあげて欲しいものです・・・。
努力すれば報われるって、ずっと信じてきたんだ。 マイケル・ジョーダン