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スタッフ通信
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VOL.76 2013/04
障害とサービス
アナタは、毎日の営業の中で、体に障害をもった人に接客する事ってありましたか? 私は、今までの飲食経験の中で、幾度もありました。常連様が事故で障害者になってしまったこともありました。そしてその常連様は今も私達のお店のファンでいます。私には障害者の友人も数人います。今月は障害者の方に対するサービスを考えてみようと思います。それは言い換えれば障害者の方に対する酒場のあり方って事です。
想像してみてください。もし、杖をついた方がご来店されたら。耳の聞こえない方がご来店されたら。目が見えない方だって多くの方が私達のお店のファンですよ。とかく障害を持った方がご来店されると身構えてしまいがちになります。アナタはどうですか? 想像できましたか? 少なくとも私は、最初、少し身構えてしまいました。どうしたらいいんだろう、どうやって接客したらいいんだろうって・・・。
ちょっと現実的なお話です。私達のミッションは、お客様が、明日を生きていく勇気や力をチャージする事です。障害者の方だってそれは同じです。だから私は、障害者の方にもっと多く来店して欲しいと考えています。
お店の躯体や構造の話をします。障害者の方に、もっと来店して欲しいって、そんな事を言っているけど、私達のお店は決して障害者の方に優しい造りになっていないのも事実です。私はこう考えています。もし、障害者の方に優しい造りの酒場を作ってしまって、それが本当に、障害者の方の酒場的喜びにつながるだろうか。と・・・。床はフラットで段差がなく、照明は明るく字が見やすい、通路は広々していて車椅子にも優しい。そんな店ではたして、障害者の方は喜んでくれるだろうか? 経営の話をします。もし、障害者の方に優しいお店をつくって、そして、それは、一般の方々にとって、楽しいのだろうか? そんなお店がつぶれず存続する事が出来るのだろうか?
私は等しく色々な方々に、私達の店を利用してもらいたいと考えています。障害者の方に対して理想的な店とは、どういったものなのかを深く考えた事もあります。その中で私の得た結論は、障害者の方も、健常者の方も、多くの部分がなんら変わらない。同じ人間だという事でした。
この結論に至るまでは、恥ずかしい話、時間がかかりました。私は過去、障害者の方については、健常者以上に、配慮をするべきと考えていました。でもその故意的なと言いますか、わざとらしいと言いますか、そういったサービスは、障害者に対して、失礼ではないかと思い始めました。なぜなら、彼らは、普通なのです。体に障害があったとしても、彼らはいたって普通です。彼らは、普通にしてほしいと願っているのです。
私達が、男性と女性とに違うサービスをすると同様に、障害者の方にも少し違ったサービスをする。それぞれの人に対する優しい気持ちがあれば、それが一番理想的なんだと私は思うんです。つまり、私達はあくまでも、他と同様のサービスを障害者の方にもするべきで、それはケースによって様々違ってくるし、違ったそれぞれの、ほんの少しの延長線上に、障害者の方がいるって事。ただそれだけなのです。難しいかな? ・・・それはね、髪の毛が金髪だとか、少し背が高いとか、英語しかしゃべれないとか、そんな事と同じなんだ。そんな事と同様に、目が見えないとか、耳が聞こえないとか、足が不自由だとかがある。ただそれだけなのではないかと私は思うのです。だから、それはある種の、その人の特徴であって、障害って言葉を使うのも疑問だと感じるのです。
忘れられない記憶の一片を紹介したいと思います。彼は耳が聞こえない人でした。来店時、私はそれがわかりませんでした。靴もきちんと自分でしまってくれたし、私の会話に対して笑顔で答えてもくれました。カップル様でとってもキレイな彼女がそばにいて、いい感じのおふたりだなぁ。そんな風に思っていました。そのおふたり共に、耳が聞こえない事を知ったのは、オーダーを取る時でした。ノックをして、部屋の戸を開けると、手話で会話をしていて、ああ、言葉が無理なんだと感じた私は、一生懸命になって、身振り手振りで、何がおすすめで、トイレはどこにあるのかを、そして、お会計はテーブル会計で・・・。一生懸命になって接客しました。喜んでもらおうと思ったのです。他のお客様より喜んでもらおうと・・・。
気持ちのいいカップルさんだったし、私も必死だった。途中、私は、そのカップルさんに何かしてあげたくて、小鉢をサービスしてあげました。とにかく喜んでもらいたかった。特別扱いをしてあげた訳です。そのカップルさんは、そんな小鉢は頼んでいないと、そう言いました。筆記です。メモ用紙を利用して、私は筆記で、コミュニケーションをとっていました。私は・・・、とっさに、返す言葉が見つからず、「僕からのサービスです」と書きました。おふたりは、一瞬、怪訝な表情になりました。しかし、すぐにニッコリ笑って「ありがとう」と書いてくれました。
失敗だった・・・。それは私には、おおいに、大失敗のサービスでした。その小鉢をサービスした理由は、一体なんだったんだろう。私の心の中で、何がどうなって、小鉢をサービスしたんだろうか。「ありがとう」と書いてくれた彼女の表情からして、なんだか、私はとても複雑な気持ちに襲われました。
カップルのお二人は、帰り際、メモ用紙に「とっても楽しかった。ありがとう! 小鉢、美味しかったです」と書いてありました。私は、妙な、自己嫌悪に襲われました。あの二人はホントにあの時、幸せだったのだろうか? 私の接客を受けて、本当に喜んでくれたのだろうか? 意味不明なサービス小鉢に、違和感や、気持ち悪さを感じたりしなかっただろうか? それとも、ふたりには、いつもの経験だったのだろうか?
障害をもった方に、一体、どのようなサービスをすればいいんだろう。深く考えるきっかけになった出来事でした。今考えてみれば、あの時の私の心の中には、確実に「偽善」という言葉が巣食っていた。不自由な方をみて、なんとか良いサービスをと考えていた私には、偽善者のレッテルが、しっかり張り付いていたに違いない。私にとっては一生懸命だったとしても、相手がそのレッテルをみた瞬間に、不愉快な気持ちになったりするのだろうなぁ・・・。
特別に何かしなくていい。障害者も健常者も、そんなに違いなんてない。大切な事は、相手に対する優しい気持ちがあるかないか。それは、骨を折ったお客様や、目がみえないお客様、みんな一緒なんだ。だから、私は、障害者にとって優しい店作りをするつもりは全くない。多くの不便をかけるかもしれないが、酒場としての、別の使命が私達にはある。それは、明日を生きる力のチャージを果たすことだ。障害をもった方達には、本来の私達の使命を感じてもらいたいと考えている。そしてその使命の中核にはいつも、私達の心があって欲しいと考えている。段差も多いし、通路も狭い。トイレに行くのだって、本当に大変だと思う。しかし私は、それが、障害者にとって不幸な事とは思えない。そのような大変な環境の中でも、私達の心配りや、気遣いや、配慮があれば、それが本当の意味での理想的酒場空間だと考えている。それは他のお客様も巻き込んで、一緒になって、助け合い、心がつながりあう瞬間であって欲しい。きちんと整備された建物で、床もバリアフリー、そんな図書館はいっぱいある。でも、それは、彼らにとって、日常であって、幸せではない。だから私は、障害をもった方々に、建物ではなく、心のバリアフリーを実現できればどんなに素晴らしいだろうかと考えている。それは、酒場である私達の究極的ミッション(使命)だ。心のバリアフリー・・・、その意味が、アナタに伝わって欲しいと願う・・・。
大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです マザーテレサ